大陶祗神 迦具突智神


嘉永の頃、横堀せともの町に火防の神として、崇敬厚い愛宕山将軍地蔵が祀られていたが、特に火災の危険の多い藁を荷造材料に使う陶器商人は、これを守護神と仰ぎ地蔵会には陶器造り人形を作り奉納し、地蔵会と共に盛んであった。明治五年地蔵祭が禁止されるに及び火防地蔵尊に代り、水、土、火の神を勧請し火防陶器神社が創起された。

当初は靭南通一丁目に鎮座ましましたが、明治四十年市内電車敷設のため、坐摩神社に移転合祀された。その後、昭和二十年戦災に遭い、二十六年西横堀浜筋に再建され、せともの祭と共に復興したが、四十六年阪神高速道路の敷設により再度立退きのやむなきとなりここに崇敬者の浄財と各地陶芸作家諸先生の賛助により、火防陶器神社の名にふさわしく陶器の宮として当所に御造営の上、同年十二月遷宮鎮座し奉り今日に至っている。

祭礼には火の要鎮のお札を火除のお守りとして参詣者に授与している。


富岡鉄斎は、幕末から大正年間を生きた文人画の巨匠で、日本の美術史に大きな足跡を残しました。

明治時代、鉄斎と親交のあった火防陶器神社が「火防」の由緒に即していただいたのがこの「火要鎮」(火の用心)の書です。以来、神社ではこの書にご祈願をして、家庭や料飲店の「火の用心」のお守りとしてお授けしてまいりました。


古くから伝えられる陶器造り人形を各所に奉納し、組合員は一年の感謝の意を込めて協賛売出しに参加します。陶器神社境内では、茶わんの祭典が催され、浪速の夏の風物詩として近郊より多数の人が集まり賑います。
せとものを扱う商人たちが、毎年七月に端物や見本品を一般の人々に安く提供した市で、それが発展し、大阪せともの祭となりました。せともの祭は江戸時代初期から受け継がれてきた三百有余年の歴史と伝統を誇る由緒ある年中行事として、そして食い倒れ大阪の食文化に欠かせない器の祭として大阪に根付いています。そしてその器への感謝の気持ちを込めて、大阪せともの祭では長年にわたり「茶碗供養」を開催しています。


大阪における陶磁器商のおこりは、肥前鍋島家の上屋敷(現在の大阪市北区)に肥前物の伊万里焼が回漕され、それを商人が扱ったことに始まる。その後尾張産の陶器、つまり瀬戸物を扱い始めたことにより陶磁器商は急成長を遂げ、西横堀問屋街が形成された。その後も瀬戸物の大商いは続き、延宝八年(1680年)から西横堀が「瀬戸物町」(現在の江戸堀から新町)と呼ばれるようになった。幕末から明治、大正にかけては200以上のお店が軒を並べ、近畿、四国、北陸地方にもその販売網は確立された。

Copyright (C) 2005Osaka Pottery Commerce Association. All Rights Reserved